福源寺について

沿革
天正19年(1591年)、米沢市林泉寺第10世住職月松宗鶴大和尚が開かれた曹洞宗寺院です。釈迦牟尼仏をご本尊に奉り、道元禅師、瑩山禅師の教えを受け継ぎ、坐禅から得られる身心のやすらぎを生活の中に活かし、自分らしい生き方を目指していくことを大切にしています。
大本山は、福井県の永平寺と神奈川県の總持寺。現在の住職は第24世。
義民斎藤彦内墓所 (伊達市指定文化財)


寛延2年(1749年)、信達地方は冷害により「田方立毛青立」(田畑の作物が実らない)と記録されたほど農作物は深刻な被害を受けた。信達地方は寛延2年より前から不作が続いており、福島藩およびその周辺では、徳川幕府の代官所により、年貢が引き下げられた。しかし、隣接する桑折の代官は地元の農民からの度重なる年貢の減免の訴えを退け、逆に年貢を2分5厘引き上げた。
追い詰められた農民たちは、「わらだ廻状」(のちに「天狗廻状」とも呼ばれた一揆の連判状)を信達地方の68の村に廻し、密議の上、総代として長岡村の彦内、鎌田村の猪狩源七、伊達崎村の蓬田半左衛門らを選出した。彦内らは数回に渡り年貢の減免を代官に願い出たが聞き入れられなかったため、16,800人余りの農民による一揆を起こした。
一揆ののち、年貢は引き下げられたが、多くの組頭や百姓代が捕縛され厳しい取り調べを受けた。見かねた彦内は首謀者として出頭し、一揆翌年の4月17日、現在の伊達市と桑折町に隣接する河床で半佐衛門・源七と共に処刑された。彦内は42歳だった。
現在も、彦内は義民として尊崇を受け、毎年4月に「寛延三義民供養祭」が行われている。
曹洞宗とは

今から800年ほど前の鎌倉時代に、「道元禅師」が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに、「一仏両祖」として仰ぎます。
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。
道元禅師が永平寺(福井県)を、瑩山禅師が總持寺(神奈川県)を開かれ、両大本山として多くの人の信仰のよりどころとされています。(曹洞宗宗務庁ホームページより)

